駿府・静岡の歴史散歩

静岡商工会議所報掲載記事。「小和田哲男さん/駿府と今川氏」「徳川家康公と駿府」「富士山と静岡の人々」「德川恒孝さん/駿府静岡と私」ほか

駿府と今川氏4 「今川天下一苗字」と小鹿・瀬名氏の誕生

イメージ 1
瀬名一秀の菩提寺・光鏡院 静岡市葵区瀬名1-38-36 (撮影:水野茂さん)
 
イメージ 2
 
駿府と今川氏 第4回
「今川天下一苗字」と
小鹿・瀬名氏の誕生
静岡大学名誉教授 小和田哲男
 
 
★永享(えいきょう)の乱の今川範忠の軍功
 
今川氏は、守護・守護大名戦国大名
長期にわたって存続した割には
一族の派生が少なく、
分布状況もあまり多くはない。
 
その背景には、
他の家には見られない
特別な理由があったのである。
 
その特別な理由というのは、
永享の乱の後の、
将軍義教から今川範忠に与えられた
少し風変わりな恩賞であった。
 
そこでまず、
永享の乱について見ておこう。
 
将軍と鎌倉府のトップである鎌倉公方
一触即発の状態にあったことは、
すでに三代将軍・足利義満、六代義教の駿府下向
のところで述べた通りである。
 
しかし、決定的な戦闘状態には
至らなかった。
 
対立は、
鎌倉公方足利持氏(もちうじ)と、
関東管領・上杉憲実(のりざね)の
衝突によって始まっている。
 
関東管領というのは
鎌倉府のナンバー2である。
 
永享10年(1438)に始まり、
将軍義教は、関東管領・上杉憲実を支持し、
信濃の小笠原政康、駿河の今川範忠らに
出陣を命じている。
 
このとき、幕府軍関東管領軍の連合軍が
鎌倉に攻め入り、
その年の11月4日、
足利持氏は金沢の称名寺で剃髪し、
降伏した。
 
ところが、将軍義教からの密命が
あったものであろう。
 
翌永享11年(1439)2月10日、
上杉憲実の軍勢に攻められ、
持氏は自殺しているのである。
 
★「今川天下一苗字」とは
 
この永享の乱のときの鎌倉攻めで、
戦功第一とされたのが
今川範忠だった。
 
普通ならば、恩賞として、
滅ぼした鎌倉公方の支配地を切り取って与えるとか、
将軍家秘蔵の甲冑とか刀剣が与えられるところであるが、
このときの恩賞は、
「これから、今川という苗字は
惣領家だけ名乗ることを許す」
というものであった。
 
私が「風変わりな恩賞」といったのは
それである。
 
当時、その家の家督は嫡子、
すなわち惣領が継ぎ、
それ以外の兄弟、庶子は分家する形となり、
それまでは、分家した家も
今川氏を名乗っていた。
 
今川了俊の子孫たちは遠江に住み、
同じように今川氏を称していたのである。
 
ところが、
このときから、苗字を
住んでいる土地の名前に改める必要が出てきた。
 
遠江の今川氏の系統で、
そのころ瀬名に住んでいた今川一秀が瀬名氏を名乗り、
範忠の弟・今川範頼も、
小鹿に住んでいたことから、
以後、小鹿氏を名乗るようになっているのである。
 
 
※この記事は、静岡商工会議所報2005年7月号に掲載しました。