駿府・静岡の歴史散歩

静岡商工会議所報掲載記事。「小和田哲男さん/駿府と今川氏」「徳川家康公と駿府」「富士山と静岡の人々」「德川恒孝さん/駿府静岡と私」ほか

三つあった!? 駿府城天守

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家康の天守台と秀吉の天守
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秀吉の天守
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発掘された金箔瓦
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駿府城を愛する会
三つあった!?駿府城天守
静岡大学名誉教授 小和田哲男
 
駿府城を愛する会(酒井公夫会長)は
2018年12月18日(火)、
静岡市中央体育館3階大会議室で
講演会を開催し、
80名が参加。
酒井公夫会長の挨拶に続き、
小和田哲男氏が講演。
その後、
駿府城天守台発掘現場に移動し、
静岡市歴史文化課から
発掘調査の説明を受けました。
小和田哲男氏の講演要旨は次の通り。
(文責:静岡商工会議所 企画広報室)
 
★五カ国時代家康の駿府城
 
三河で自立し、今川氏真を攻めて、
三河遠江二カ国の大名となり、
元亀元年(1570)に
居城を岡崎から浜松に移します。
 
織田信長とともに
武田氏を滅ぼして駿河を得、
甲斐・信濃も奪い、
五カ国の大名となりました。
天正13年(1585)、
居城を浜松から駿府に移すことを
決めました。
 
次男を豊臣秀吉の養子に出し、
講和を結びます。
秀吉との距離をおき、
五カ国の中心である駿府
城を造るのが適当と考えたのです。
 
翌年9月1日、
駿府城に移ります。
まだ駿府城は完成していません。
松平家忠の日記を見ると、
石垣の上に天守を築いていたことが
分かります。
どんな天守を、どこに築いたかは不明です。
 
駿府城天守台を掘り下げると、
五カ国時代の天守
今川館の遺構が出てくるかもしれない
と考えています。
 
中村一氏(なかむらかずうじ)の駿府城
 
大御所時代家康の駿府城天守台は、
東西61m×南北68mで、
江戸城天守台よりも大きいことが
分かりました。
 
さらに掘り下げたところ、
東西33m×南北37mの石垣が
出てきました。
石垣の角度が違い、
天正時代の技術では
高い石垣は積めませんでした。
 
尾張の出身で、
信長の家臣から、秀吉の重臣となり、
天正18年(1590)の山中城攻めで活躍し、
小田原攻めの論功行賞で
家康が江戸へ移ったため、
駿府城主14万5千石となり、
駿府で亡くなり、墓は臨済寺にあります。
 
一氏は、
家康が新築した城に入った
と思っていましたが、
実際は、
秀吉の命令で、
五カ国時代家康の駿府城を壊し、
その上に秀吉流の天守を建てたことが
今回の発掘で明らかになりました。
 
その象徴が330点の金箔瓦。
秀吉には黄金趣味があり、
江戸の家康を意識して、
金箔瓦を葺かせたのです。
 
★大御所時代家康の駿府城
 
慶長8年(1603)、
征夷大将軍になった家康は、
2年後、
秀忠に将軍職を譲ります。
 
秀忠を自立させるために距離をおこう
と考えた大御所・家康は、
駿府を選びます。
 
その理由を
増上寺の住職に話しています。
①自分にとっては故郷のようなところ。
②暖かい。
③米が美味しい。
④南西に大井川・安倍川、
北東に箱根山・富士山があり、
国堅固の地。
つまり、大坂方に対する備え。
大坂方が東海道を江戸へ攻め上ってきたら、
駿府で迎え撃とうという想いがありました。
 
駿府城は、
大手門が西(大坂方)を向いていて、
西の石垣が堅固で、
横矢が工夫されています。
薩摩土手は惣構(そうがまえ)の一部です。
 
工事は、
慶長12年(1607) 正月から
天下普請として進められ、
7月3日に本丸御殿が完成。
しかし、12月22日に焼失。
翌年3月に本丸御殿が完成し、
11日に家康は移りました。
 
その後も駿府城
たびたび火災にあっています。
 
 
※この記事は、静岡商工会議所報2019年3月号に掲載しました。

旧幕臣と明治日本/川村清雄

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田口卯吉
 
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徳川家臣団大会2017

 
徳川みらい学会2017年第1回講演会
「徳川家臣団大会2017」を
2017年4月16日、
「日本の近代化の礎となった静岡の幕臣たち
大政奉還150周年に寄せて」
をテーマに、
しずぎんホール「ユーフォニア」で開催。
德川宗家18代当主の
德川恒孝氏のあいさつに続き、
出席した幕臣の子孫の皆様を紹介。
その後、
樋口雄彦国立歴史民俗博物館教授が
「旧幕臣と明治日本」、
落合則子東京都江戸東京博物館学芸員
「川村清雄」
について講演しました。
両氏の講演要旨は次の通り。
(文責:静岡商工会議所 企画広報室)
 
 
幕臣と明治日本
国立歴史民俗博物館教授 樋口雄彦さん
 
徳川家と幕臣たちは
歴史の表舞台から追いやられて、
歴史の教科書レベルでは、
ほとんど登場しなくなります。
 
だからといって、
彼らの歴史的な役割が
消えてしまったわけではありません。
 
負けた側になったことが
くやしくて、
がまんならなくて、
行動に出たのが
戊辰戦争でした。
 
やがて時間が経つと、
もう少し客観的に
歴史を見直すようになりました。
 
その代表的な人物が
田口卯吉です。
 
田口は、
日本の歴史を
西洋の文明史観に基づいて叙述した
『日本開化小史』(明治15年刊)の末尾で、
「幕府は歴史の流れのなかで、
倒れるべくして倒れただけであって、
誰かに責任をなすりつけるべきではない」
という客観的な見方をしています。
 
田口は、
幕臣の子で、
10代前半の少年時に体験し、
静岡へ移住し、
沼津兵学校の生徒になりました。
 
明治35年、
侯爵を授けられた時の
祝賀会の講演会では
「明治政府の建設的事業において、
陸軍、
海軍、
他の省庁、
大学
で力を発揮して
国づくりに貢献したのは
われわれ旧幕臣たちである。
それだけの人材を
旧幕府が輩出できたのは、
慶喜公が
維新の時に、
戦争をして人を殺さず、
朝廷に平和に大政を奉還し、
静岡学問所や沼津兵学校をつくって
子弟を教育することに
意を注いだからだ」
と自信をもって語っています。
 
明治30年は、
名誉を回復し、
静岡から東京に居を移し、
幕臣
近代国家を建設する一員として働き、
自信を取り戻した時期です。
 
この年の
幕臣たちの親睦会
「同方会」
の名簿を見ると、
爵位を与えられた者、
軍人、
文官、
政治家、
実業家、
学者、
医者、
文人・趣味人、
クリスチャン
として名を残した人が
並んでいます。
 
彼らは、
幕末に
西洋の新しい技術や知識を身に付けて、
その能力を評価された、
新しいタイプの人材でしたが、
一度は新政府軍と戦ったり、
静岡へ移住する道を選んだ
人たちでした。
 
彼らが幅広い分野で活躍し、
日本の近代化を
様々な場面から下支えすることに、
幕臣の役割がありました。
 
 
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        江戸城明渡の帰途
 
川村清雄
海舟が愛し、家達が慕った洋画家
東京都江戸東京博物館学芸員 落合則子さん
 
川村清雄は、
嘉永5年(1852)、
ペリーが来航する1年前、
将軍の目となり耳となる
御庭番の家に生まれました。
 
12歳の時、
幕府の開成所画学局で
高橋由一らから
西洋画法を学びました。
 
17歳の時、
明治維新となり、
人生が変わりました。
 
6歳の徳川家達公に従って
静岡へ移り、
親しく仕えました。
 
明治4年(1871)、
徳川家留学生として
同僚4人とともに渡米。
 
山正一の勧めで
絵を専門に学び、
その後、
パリ、ヴェネツィアへ渡り、
通算10年間、
西洋で絵を学びました。
 
ヴェネツィアの美術学校では、
2年目の学年末試験で
1等を受賞する天才ぶりを
発揮しました。
 
当時の西洋画壇は
ジャポニズム盛で、
外国人の画家たちから、
日本の意匠を建てるように言われ、
それが
清雄の画家としての人生を
方向づけました。
 
この頃、
英国に留学した
15歳の家達公
との再会を果たしました。
 
清雄が
明治14年に帰国すると、
海舟は
邸内に清雄の画室を
建てました。
 
徳川家から
歴代将軍像の注文を受け、
5枚が完成。
 
明治32年に
海舟が亡くなると
「かたみの直垂」を描き、
終生傍らに置きました。
 
江戸城明渡の帰途」は、
江戸城石垣を背景にした勝海舟
後ろには
刀を持って怒りの形相の幕府の陸軍士官と
それを制止する人物、
海舟の足元には
葵の御紋が入った瓦、松の実、松葉
が描かれています。
 
松は
繁栄の象徴で、
徳川の世の終焉をあらわしています。
 
この絵は、
いう難事業を成し遂げた
悟ある精神と緊張感に満ちた
歴史の一瞬を
象徴的に描いた
「歴史画」です。
 
 
※この記事は、静岡商工会議所報2017年6月号に掲載しました。

徳川が創り上げた江戸システムの価値

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                          エルヴィン・フォン・ベルツ
 
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徳川みらい学会2017年度第4回講演会
徳川が創り上げた江戸システムの価値
作家・歴史評論家 原田伊織さん
 
 
徳川みらい学会2017年度第4回講演会を
2017年10月20日(金)、
しずぎんホール「ユーフォニア」で開催。
作家の原田伊織氏が講演しました。
講演要旨は次の通り。
(文責:静岡商工会議所 企画広報室)
 
明治維新は過ちだった
 
今日は、
明治維新にふれつつ、
江戸の価値をお話ししたい。
 
私たち大和民族にとって、
過ちではなかったか
という私なりの問題提起です。
 
どこが誤っているのか。
 
4つだけ申し上げます。
 
徳川300年弱の歴史と伝統を
全否定した。
 
明治政府のお雇い外国人の
ベルツ博士は、
明治の日本人が
「自分たちには歴史はありません。
江戸期は野蛮でした。
私たちの歴史はここから始まるのです」
と言ったことに
怒っています。
 
明治以降の教育は、
これを実践した面がありました。
 
私たちは
江戸期の真の姿を
意外に知りません。
 
太古の昔に復古する
と言いつつ、
文明開化という
西洋の模倣主義に
走ってしまいました。
 
長州も
薩摩も
戊辰戦争の前から
イギリスの支援を受けていたので、
これは自然な流れでした。
 
徳川幕府を倒した後に
どんな国をつくるか
というグランドデザインを
全く持っていませんでした。
 
「我々がやっていることは、
小栗(幕臣小栗上野介忠順)の模倣にすぎない」
と言っています。
 
薩摩、長州は、
関ヶ原の怨念で
倒幕に走りました。
 
天皇の政治利用と
官民の癒着は、
明治新政府から始まっています。
 
地方官に任命された者は、
自分たちが
徳川期の大名に取って代わった
ような錯覚に陥っています。
 
そういうスタートを切って、
どうなったか。
 
第二次世界大戦太平洋戦線に
強引につっこんでいき、
大和民族として初めて、
異民族に国家を占領される
事態をもたらしました。
 
この150年を
過ちと言わずして、
どう表現するのか。
 
しかし、
その実態は
一般にほとんど伝わっていません。
 
学校教育が
官軍教育として
展開されてきたからです。 
  
安全保障の観点から
閉鎖体制をとったこと、
武家の「尊皇佐幕」意識が
朝廷と戦わない
「恭順」の動きとなったこと、
イギリス、アメリカの
日本侵略を防いだのは
徳川の幕臣であること、
倒幕軍が
テロリズムを繰り広げたこと
を隠蔽しました。
 
★日本の伝統文化は江戸期に完成
 
江戸期は
閉鎖体制をとることによって、
精神文化から
自然科学に至るまで
オリジナリティが育ち、
高度な江戸文明が発達しました。
     
江戸期は
教育投資が盛んで、
世界一の75%。
 
街道の伝馬制では
受け書、
送り書と
何枚もの文書が必要でした。
 
和算(数学)、
建築・土木
の技術レベルは
非常に高かった。
 
日本の伝統文化は
江戸期に完成しています。
 
能、狂言、歌舞伎、浄瑠璃などの芸能、
武家の作法、
組織と和を尊重する精神文化
が完成し、
倫理感が強くなりました。
 
日本を旅して、
日本人の清潔さ、
親切さ、
邪心のなさ
に感動しています。
 
自分たちも自然の一部である
という考え方は、
森林を管理し、
人糞を肥料として利用し、
江戸期の循環システムを
作り上げました。
 
★平和を政治の根底に置いた家康
 
265年弱にわたって、
一度も戦争をしませんでした。
 
元和に改元した1615年、
家康と秀忠は
「徳川の治世では戦争はしない」
という時代のコンセプトを
打ち出しました。
 
これは、
徳川が一番誇っていいこと
だと思います。
 
平和が一番大事。
 
その上で何をするか。
 
身分制はありましたが、
融通が利きました。
 
明治は、
江戸の遺産で
成り立っていました。
 
それを遺したのは、
どうやったら平和を維持できるか
という徳川治世のプライドです。
 
平和を
政治の根底に置いて考えた政権は
珍しい。
 
おおいに誇られていい
のではないでしょうか。
 
 
※この記事は、静岡商工会議所報2018年1月号に掲載しました。

幕末・明治維新の静岡で活躍した人々

幕末・明治維新の静岡で活躍した人々
 
わが国の東西を結ぶ位置にある静岡市は、
戦国や幕末など時代の変わり目に
歴史の表舞台に登場してきました。
 
2017年は、
15代将軍・徳川慶喜公が
朝廷に政権をお返しする「大政奉還」を申し出て
朝廷がそれを受け入れた
1867年(慶応3)から150周年にあたり、
京都市を中心に
記念プロジェクトが開催されています。
 
また、
2018年は
西郷隆盛を主人公にした
NHK大河ドラマが放映されます。
 
そこで、
今回の観光飲食部会特集では、
静岡市の幕末・明治維新の史跡をめぐりつつ、
幕末から明治維新への変わり目を乗り越えた
人々の生き様に想いをはせました。 
(文責:静岡商工会議所 企画広報室)
 
 
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徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
1837(天保8)~1913(大正2)
 
水戸藩主・徳川斉昭の七男。
 
1847年、一橋家を継ぐ。
 
1866年、十五代将軍となる。
 
翌年、大政を奉還して
列侯会議の実権を握ろうとしたが、
武力討幕に追いこまれ、
大坂に退去。
 
海路、江戸に帰った。
 
この間、
鳥羽伏見の戦いが起こり、
朝敵の汚名を受けたが、
討幕軍の東下に際し、
江戸城で謹慎して
内乱の回避と徳川氏の存続に努め、
江戸城を明け渡して
水戸に去り、
徳川家を譲った
家達の駿府移住が決まると、
慶喜駿府へ。
 
1897年(明治30)、
東京へ移り、
侯爵となる。
 
 
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徳川家達(とくがわいえさと)
1863(文久3)~1940(昭和15)
 
田安慶頼の第三子。
 
1868年4月の江戸城開城で、
6歳になる田安亀之助が
徳川宗家を相続した。
 
次いで駿河遠州両国が与えられ、
駿河府中藩主として
駿府に入り、
重臣の協力を得て
藩政の展開を図り、
商法会所、静岡学問所、沼津兵学校等の開設、
無禄移住した旧幕臣には
牧之原等各地の開墾を奨励。
 
1869年の版籍奉還により
藩知事となり、
静岡と改称。
 
1871年の廃藩置県
東京に戻り、
1877年に英国留学。
 
1890年から
帝国議会貴族院議員となる。
 
 
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勝海舟(かつかいしゅう)
1823(文政6)~1899(明治32)
 
旗本・勝小吉の長男。
 
蘭学を学んで頭角を現し、
ペリー来航に際して提出した
海防意見書で注目された。
 
1855年、
海軍伝習生監督として長崎に赴き、
オランダ海軍の伝習を受け、
1860年、
咸臨丸艦長として
太平洋を横断して渡米。
 
1862年、
神戸海軍操練所で
幕府海軍を養成し、
坂本龍馬らを育てた。
 
1986年の
幕府瓦解に際しては、
徳川家救済、
慶喜公助命に努力。
 
徳川家の駿府移住に従い、
門屋に
家族とともに居住。
 
のち新政府に出仕した。
 
 
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山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)
1836(天保7)~1888(明治21)
 
飛騨郡代・小野朝右衛門の子として
江戸に生まれる。
 
1855年、
槍の師である山岡家を嗣ぐ。
 
千葉周作に剣を学び、
無刀流を案出。
 
1868年、
将軍慶喜公が上野に謹慎すると
精鋭隊頭となるが、
勝海舟の委嘱により
駿府滞陣中の西郷隆盛と会見し、
江戸城無血開城の下交渉を行った。
 
徳川家の駿府移住に従い、
静岡藩の権大参事となる。
 
清水次郎長と親交を結び、
久能寺を復興し
鉄舟寺とした。
 
のちに新政府に出仕し、
茨城県参事等を経て
侍従となり、
明治天皇の側近となった。
 
 
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渋沢栄一(しぶさわえいいち)
1840(天保11)~1931(昭和6)
 
現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれ、
畑作、藍玉作り、養蚕を手伝う。
 
 「尊王攘夷」思想の影響を受けた後、
京都で一橋慶喜公に仕え、
一橋家の家政を改善。
 
1867年、
慶喜公の弟・昭武に随行して
欧州諸国の実情を見聞。
 
翌年末、
帰国した栄一は
駿府慶喜公に拝謁し、
静岡藩の財政を立て直すために
商法会所を設立。
 
1869年末に
新政府の大蔵省の官僚となり、
辞職後は、
第一国立銀行を拠点に、
株式会社組織による
企業の創設・育成に力を入れ、
470余の企業に関わった。
 
 
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中村正直(なかむらまさなお)
1832(天保3)~1891(明治24)
 
幕臣の子として
江戸に生まれ、
昌平坂学問所に学び、
幕府の儒官となったが、
さらに洋学を学び、
1866年、
英国留学。
 
幕府瓦解を知って帰国し、
駿府に移住。
 
1868年10月に開校した
静岡学問所教授(漢学)に就任。
 
1870年~1872年、
スマイルス『西国立志編』、
ミル『自由之理』を
静岡市で翻訳し、出版。
 
数十万冊が出版され、
ベストセラーとなった。
 
静岡学問所の廃止直前に上京し、
大蔵省翻訳御用を務め、
1881年、
東京帝国大学教授に就任。
 
 
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新門辰五郎(しんもんたつごろう)
1800(寛政12)~1875(明治8)
 
カザリ職人・中村金八の子として
江戸に生まれ、
輪王寺宮の家臣・町田仁右衛門の養子となる。
 
鳶仕事をし、
浅草下谷を管轄する
十番火消頭取となる。
 
浅草に隠居した際、
新しい門を守らせたことから
新門の辰五郎と呼ばれる。
 
慶喜公に見出された辰五郎は、
上洛した慶喜を警護し、
金扇馬印を守り、
江戸へ持ち帰った。
 
慶喜公とともに
駿府に移住。
 
静岡の町火消しをつくり、
頭取に就任。
 
玉川座の復興にも尽くし、
東京へ帰って死去。
 
娘は
慶喜公の愛妾。
 
 
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清水次郎長(しみずのじろちょう)
1820(文政3)~1893(明治26)
 
清水港の船頭・三右衛門の三男に生まれ、
米屋甲田屋・山本次郎八の養子となる。
 
家業に精を出すが、
やがて侠客の世界に身を投じ、
海道一の親分として
声名をはせた。
 
幕末には
倒幕軍から
沿道警備役を命ぜられ、
幕臣10万人の
駿府移住の際は
寺・神社等の宿泊所を探した。
 
清水港で
官軍に砲撃された咸臨丸の死者を
手厚く弔った。
 
慶喜公の投網のお供は
次郎長だった。
 
侠客時代に鍛えた
情報力・交渉力を発揮し、
富士山麓の開墾、
清水港の開発、
等の新事業に取り組んだ。
 
 
※この記事は、静岡商工会議所報2017年9月号に掲載しました。

幕末・明治維新の静岡をめぐる旅

筆:邨田丹陵
所蔵:明治神宮
 
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幕末・明治維新の静岡をめぐる旅
 
わが国の東西を結ぶ位置にある静岡市は、
戦国や幕末など時代の変わり目に
歴史の表舞台に登場してきました。
 
2017年は、
15代将軍・徳川慶喜公が
朝廷に政権をお返しする「大政奉還」を申し出て
朝廷がそれを受け入れた
1867年(慶応3)から150周年にあたり、
京都市を中心に
記念プロジェクトが開催されています。
 
また、
2018年は
西郷隆盛を主人公にした
NHK大河ドラマが放映されます。
 
そこで、
今回の観光飲食部会特集では、
静岡市の幕末・明治維新の史跡をめぐりつつ、
幕末から明治維新への変わり目を乗り越えた
人々の生き様に想いをはせました。 
(文責:静岡商工会議所 企画広報室)
 
 
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西郷・山岡会見の地
 
西郷・山岡会見の地
 
江戸に向け
駿府に進軍した
有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍の
参謀・西郷隆盛と、
軍事最高責任者・勝海舟の命を受けた
幕臣山岡鉄舟の会見が
1868年(慶応4)3月9日、
伝馬町の松崎屋源兵衛宅で行われました。
 
この会見において、
15代将軍徳川慶喜公の処遇、
江戸城の明け渡し、
徳川幕府の軍艦・武器の引き渡し
などが合意され、
5日後の3月14日、
江戸・三田の薩摩藩邸で行われた
勝海舟西郷隆盛との会談により
最終的に決定され、
江戸城無血開城が実現しました。
 
明治維新史の中でも
特筆すべき会談に
位置づけられています。
 
 
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宝台院
 
宝台院
徳川慶喜公謹慎の地
 
1868年(明治元)7月19日に
水戸を出発して銚子港に到着し、
21日に蟠龍艦に乗船し、
23日に清水港に到着。
 
厳重な護衛がついて駿府に向かい、
夕刻には
二代将軍秀忠公の生母ゆかりの
宝台院に入りました。
 
翌年9月28日に謹慎が解け、
10月5日に
紺屋町の元代官屋敷に移転するまで
約1年を
宝台院の十畳の居間で起居し、
六畳で勝や渋沢と面会しました。
 
当時の宝台院の建物は
焼失しましたが、
慶喜公の遺品として、
キセル、カミソリ箱、急須、火鉢、
直筆の掛軸、居間に安置した観音像
が残っています。
 
 
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浮月楼 徳川慶喜公屋敷跡
 
徳川慶喜公屋敷跡
 
明治維新を欧州で知り、
帰国した渋沢栄一
1986年12月19日に駿府に到着し、
翌々日の夕方、
宝台院で慶喜公に拝謁しました。
 
渋沢は、
府中藩の財政上の破産を案じ、
新政府から拝借した53万両と
西洋で行われている共力合本法
(個人の財産を集めて大きな事業の元手にすること)
を合わせて
ひとつの商会を結成し、
モノの売買や金銭の貸借を
取り扱うことを提案。
 
この着想を実現する方向で
藩の評議がまとまると、
1969年1月16日、
紺屋町の元代官屋敷
(現在の浮月楼)に
「商法会所」を設立し、
事業を始めました。
 
同年10月、
渋沢は
謹慎が解けた慶喜公に
屋敷を渡し、
教覚寺に移ります。
 
元代官屋敷には
池泉回遊式庭園が作られ、
慶喜公は
西草深の新邸に転居されるまで
20年間住まわれました。
 
 
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静岡学問所之碑
 
静岡学問所之碑
 
1968年10月、
藩の人材養成を目的として、
駿府城四ツ足御門にあった
元定番屋敷内
(現在の静岡地方合同庁舎付近)に
府中学問所を創設。
 
学問所は
翌年、駿府が静岡に改められて
静岡学問所となりました。
 
この学問所には、
向学心に燃える者は
身分を問わず入学が許可され、
向山黄村、
津田真一郎、
外山捨八
など旧幕府の教育機関に所属していた学者たちが
国学・漢学・洋学を教授し、
旧幕府の蔵書も移管。
 
アメリカ人教授E・W・クラークは
専門の理化学のほか
哲学や法学も教えました。
 
1872年8月の学制施行とともに
廃校となり、
洋学系の教授の多くは
新政府に登用され、
活躍しました。
 
学問所の蔵書は
「葵文庫」として
静岡県立中央図書館に
保管されています。
 
 
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西草深公園 徳川家達公邸跡
 
西草深公園
徳川家達公邸跡
 
1868年4月29日、
当時6歳の田安亀之助は
徳川宗家を相続し、
5月24日に徳川家達と改名して
駿府城主となり、
70万石を下賜されると、
8月9日に江戸を出発し、
8月15日に駿府に到着。
 
宝台院を参拝し、
慶喜公に対面された後、
駿府城の元城代屋敷(旧青葉小学校~教育会館)に
入りました。
 
翌年7月20日、
家達公は
浅間神社前(石鳥居脇)の
新宮兵部(浅間神社の社家)の屋敷に移られ、
1871年8月28日に東京へ帰住されるまで、
ここにお住まいになりました。
 
現在は、
西草深公園として整備され、
市民の憩いの場になっています。
 
1888年、
東海道鉄道が開通すると、
慶喜公は喧騒を避けて、
家達邸の東側に新しい屋敷を構え、
東京に戻る1897年まで
約10年、住まわれました。
 
 
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「尚志」の碑
 
「尚志」の碑
 
昌平坂学問所で学び、
1866年に
幕府がイギリスに留学生を派遣するときに
取締として同行しました。
 
幕府瓦解により帰国する際、
親しくしていたイギリス人から
餞別として贈られた書物が
『Self Help』。
 
帰国後、
中村も駿府に移住し、
1868年に
府中学問所の一等教授となり、
富春院
(静岡市葵区大岩本町26‐23 城北公園むかい)
の北側に
半洋式の「雑農軒」と称する
住宅を新築。
 
この静岡滞在時代に
S・スマイルズ著『Self Help』の訳書
J・S・ミル著『On Liberty』の訳書
『自由之理』
を出版しました。
 
邸宅跡には
中村敬宇先生旧宅跡」の石柱、
富春院の門前には
中村が書いた「尚志」の碑
が建てられています。
 
 
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田安門 徳川家達公邸門
 
田安門
徳川家達公邸門
 
田安門は、
西草深町の静岡浅間神社むかいに
建っていました。
 
この敷地には
浅間神社の新宮家の役宅が
置かれていましたが、
1869年、
版籍奉還により
静岡藩知事に任命された
田安家出身の徳川家達公が
私邸として
譲り受けました。
 
この門は、
その遺構であり、
家達公の出身に因んで
「田安門」と通称されてきました。
 
家達公は
1871年に
東京に帰住しましたが、
この門は
現地に残され、
1887年、
静岡尋常中学校の校舎の
正門となりました。
 
1900年には
師範学校女子部に引き継がれ、
1924年には
西草深児童遊園地となりましたが、
この門は
残存。
 
1958年、
(静岡市葵区千代田3‐1‐1)
に移築され、
向学のシンボルとして
今日に及んでいます。
 
 
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壮士墓
 
壮士墓
 
1986年4月19日、
榎本武揚が率いる幕府軍艦8艦は、
品川沖から
館山に脱走。
 
そのうち咸臨丸は
8月20日、
悪天候のため浦賀沖で座礁して漂流し、
下田港を経て
9月2日に清水港に入港。
 
下田港から通報を受けた
総督府
富士山丸、武蔵丸、飛龍丸を
清水港に向け、
9月18日に咸臨丸を砲撃。
 
咸臨丸に残っていた10数名は
討死にし、
官軍は死体を海に投げ捨てたまま、
咸臨丸を曳航して
引き揚げてしまいました。
 
死体が湾内に漂ったまま
数日が経ち、
舟を出して
7人の死体を収容して
向島の松の根もとに埋葬し、
盛大な法要を営んで、
悲運の戦士を供養しました。
 
次郎長の心意気をたたえ、
向島の埋葬箇所に
みずから渾毫して
「壮士墓」を建てました。
 
 
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咸臨丸記念碑
 
咸臨丸記念碑
 
(静岡市清水区興津清見寺町4181)
の境内に建つ
「咸臨丸記念碑」には、
大鳥圭介による
「骨枯松秀」の篆額、
永井尚志による
約300字の碑文、
榎本武揚による
「食人之食者死人之事」
(人の食を食む者は、人の事に死す
=徳川の禄を食んだ咸臨丸乗組員は、徳川に殉じた)
という『史記』の一節が
刻まれています。
 
榎本が率いた旧幕府艦隊は、
咸臨丸を失った後、
1868年10月26日に
箱館五稜郭を占領。
 
しかし、
翌年5月18日に降伏。
 
榎本は投獄されますが、
1872年に放免となり、
を経て、
大臣を歴任。
 
1887年4月17日に
清見寺で、
記念碑の除幕と法要を営んだ時は、
第1次伊藤博文内閣の
逓信大臣に就任していました。
 
 
※この記事は、静岡商工会議所報2017年9月号に掲載しました。

江戸城無血開城と山岡鉄舟

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         山岡鉄舟

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徳川家臣団大会2018
全生庵住職 平井正修さん
 
 
徳川みらい学会2018年度第1回講演会
「徳川家臣団大会2018」を
2018年4月16日、
しずぎんホール「ユーフォニア」で開催。
明治維新150年にちなみ、
静岡ゆかりの山岡鉄舟に焦点を当てた
プログラムを実施しました。
 
前半は、
静岡県舞台芸術センター(SPAC)の俳優・奥野晃士氏が、
歴史動読「鉄舟危機一髪 苦難の薩埵峠」と題し、
鉄舟が
幕府の意を受けて
駿府に乗り込み、
清水次郎長の助けも借りながら
西郷隆盛との面会に至るまでを
ドラマチックに披露しました。
 
後半は、
鹿児島からゲストとして招いた
西郷隆盛のひ孫の
陶芸家・西郷隆文氏のインタビューをはさんで、
全生庵住職の平井正修氏が
江戸城無血開城山岡鉄舟」と題して講演。
最後に
德川宗家18代德川恒孝氏のご子息・
家広氏(德川記念財団理事)が挨拶。
 
会場には、
徳川家臣団の子孫の皆様を含め、
約500名が来場。
 
平井正修氏の講演要旨は次の通り。
(文責:静岡商工会議所 企画広報室)
 
★書、剣、禅を極める
 
全生庵は、
明治16年(1883)に創建した臨済宗の寺で、
東京都台東区谷中にあります。
 
幕末から明治にかけて、
どうやって新しい日本をつくるか
を真剣に考え、
無念にも命を落とした人たちを
弔う場所です。
 
本尊は
江戸城の守り本尊であった
葵正観世音です。
 
鉄舟は1836年、
600石の小野家の五男に生まれ、
10歳の時に
父が飛騨郡代に任命されたため、
高山に移住。
 
書を学んでいた岩佐一亭から
15歳の時に
弘法大師入木道52世を
受け継ぎました。
 
両親が高山で亡くなると、
5人の弟を連れて
江戸へ帰り、
狂気の如く剣道に精進。
 
昼は剣、
夜は坐禅の生活をおくり、
剣では無刀流を極め、
禅では京の天竜寺の滴水和尚から
印可を与えられました。
 
坐禅を始めたきっかけは、
武家に生まれ、
敵に向かい、
死に臨む時に、
自分の心が
生死を考えない不動心を得る方法を
父に聞いたところ、
胆を練るには坐禅がいい
と言われたからです。
 
20歳の時、
槍術を学んでいた山岡静山が亡くなり、
山岡家の養子となりますが、
生活は貧乏でした。
 
西郷隆盛との談判
 
時代は、
風雲急を告げる幕末維新となり、
鉄舟は
尊王攘夷党を結成し、
危険人物とみられます。
 
1868年、
徳川慶喜公の命を受けた鉄舟は、
勝海舟らに相談に行き、
駿府に滞在する西郷隆盛との
談判に向かいます。
 
「談判筆記」によれば、
西郷
「いま、先生(鉄舟)に来ていただいて、
江戸の状態もよく分かった。
その事情を大総督宮へ言上するから、
しばらく待て」。
 
西郷が戻り、
大総督宮から
五ヵ条の条件が下げ渡されました。
 
一、城を明け渡すこと。
一、城中の人数を向島に移すこと。
一、兵器を渡すこと。
一、軍艦を渡すこと。
一、徳川慶喜備前へ預けること。
 
西郷
「これだけの条件が整えば、
徳川家と江戸を攻めるのは止めましょう」。
 
鉄舟
「慎んで承ります。
しかし、
主人慶喜備前へ預けることは
できません」。
 
西郷
「朝命なり」。
 
鉄舟
「島津公がもし朝敵の汚名を受け、
あなたが降伏の使者として来た時に、
あなたは島津公を敵方に渡して、
安閑として傍観することができますか」。
 
西郷は
しばらく黙念してから
「先生(鉄舟)のおっしゃる通りだ。
慶喜殿のことは
西郷が引き受けます」。
 
こうして談判は成功しました。
 
 
※この記事は、静岡商工会議所報2018年6月号に掲載しました。

徳川家康と黒田官兵衛

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黒田如水
 
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徳川みらい学会2014年度第5回講演会
静岡大学名誉教授 小和田哲男さん
 
 
徳川みらい学会2014年第5回講演会を
11月1日(土)、
静岡市民文化会館で開催しました。
講師は静岡大学名誉教授の小和田哲男氏。
豊臣秀吉の天下取りを支えた黒田官兵衛
徳川家康公との接点について
語りました。
要旨は次の通り。
(文責:静岡商工会議所 企画広報室)
 
 
★情報網を持っていた官兵衛
 
最初から秀吉の軍師だったわけではなく、
姫路城の近くにある
御着城の城主・小寺政職の家老でした。
 
西からは毛利輝元
東からは織田信長
に攻め入れられる危険性のある中で、
黒田家譜」という史料によると、
大多数の家老が
毛利家につく
ことを意見していました。
 
しかし、官兵衛は
織田家に従属することを
提案しました。
 
これには、
遠く離れた地で起こったため、
他の誰もが知らなかった
「長篠・設楽原の戦い」で
武田軍に勝利した
ということを、
情報としてつかんでいたためでした。
 
★家康を秀吉に臣従させる官兵衛の策略
 
信長の播磨平定の際に
送りこまれた大将が
秀吉であったことから、
その後、官兵衛は
秀吉の軍師として、
手腕を発揮することになります。
 
秀吉は
家康を自分の家臣にするため、
妹である朝日姫を
家康に嫁がせました。
 
これは
史料には記載されていませんが、
きっと官兵衛が
工作していたのではないか
と思っています。
 
 
秀吉の小田原攻めの際には、
小田原城に籠城した
北条氏政に対し、
官兵衛は
武器を持たず
城内に乗り込み、
説得することに
成功します。
 
難攻不落といわれた
小田原城無血開城できたことには
官兵衛の役割が
大きかったのです。
 
★黒田家と石田三成
 
秀吉の弟の
秀長が
病死して以後、
中枢として活躍した
官兵衛は
ライバル関係にありました。
 
官兵衛隠居後、
黒田家を継いだ
官兵衛の息子である
長政も
大の三成嫌いで、
家康の養女・栄姫と
結婚したこともあり、
家康についています。
 
そのような状況で
関ヶ原の戦いを迎え、
長政は
東軍・家康側で
活躍しました。
 
同時期に
九州版関ヶ原とも言える
「石垣原の戦い」
が起こります。
 
出家し
「如水」となった
官兵衛は、
居城の中津にて
貯蓄していた金で
百姓を集め、
大友義統の軍勢と戦い、
勝利します。
 
この頃、
九州の大名は
関ヶ原のほうに出向いており、
城には
留守部隊が
わずかしかいない状況であり、
官兵衛は
どんどんと
西軍の諸城を
落としていきました。
 
九州全土を平定し
天下を狙った
という説もありますが、
秀吉の跡を継いだ
秀頼を、
三成よりも
家康に託したかった
というのが本音だった
ように思えます。
 
自分が
秀吉の天下取りを支え、
息子・長政が
家康の天下取りを支え、
親子二代で、
長い戦国乱世に
終止符を打つ結果になったことに
満足していたのでしょう。
 
 
※この記事は、静岡商工会議所報2014年12月号に掲載しました。