駿府・静岡の歴史散歩

静岡商工会議所報掲載記事。「小和田哲男さん/駿府と今川氏」「徳川家康公と駿府」「富士山と静岡の人々」「德川恒孝さん/駿府静岡と私」ほか

徳川が創り上げた江戸システムの価値

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                          エルヴィン・フォン・ベルツ
 
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徳川みらい学会2017年度第4回講演会
徳川が創り上げた江戸システムの価値
作家・歴史評論家 原田伊織さん
 
 
徳川みらい学会2017年度第4回講演会を
2017年10月20日(金)、
しずぎんホール「ユーフォニア」で開催。
作家の原田伊織氏が講演しました。
講演要旨は次の通り。
(文責:静岡商工会議所 企画広報室)
 
明治維新は過ちだった
 
今日は、
明治維新にふれつつ、
江戸の価値をお話ししたい。
 
私たち大和民族にとって、
過ちではなかったか
という私なりの問題提起です。
 
どこが誤っているのか。
 
4つだけ申し上げます。
 
徳川300年弱の歴史と伝統を
全否定した。
 
明治政府のお雇い外国人の
ベルツ博士は、
明治の日本人が
「自分たちには歴史はありません。
江戸期は野蛮でした。
私たちの歴史はここから始まるのです」
と言ったことに
怒っています。
 
明治以降の教育は、
これを実践した面がありました。
 
私たちは
江戸期の真の姿を
意外に知りません。
 
太古の昔に復古する
と言いつつ、
文明開化という
西洋の模倣主義に
走ってしまいました。
 
長州も
薩摩も
戊辰戦争の前から
イギリスの支援を受けていたので、
これは自然な流れでした。
 
徳川幕府を倒した後に
どんな国をつくるか
というグランドデザインを
全く持っていませんでした。
 
「我々がやっていることは、
小栗(幕臣小栗上野介忠順)の模倣にすぎない」
と言っています。
 
薩摩、長州は、
関ヶ原の怨念で
倒幕に走りました。
 
天皇の政治利用と
官民の癒着は、
明治新政府から始まっています。
 
地方官に任命された者は、
自分たちが
徳川期の大名に取って代わった
ような錯覚に陥っています。
 
そういうスタートを切って、
どうなったか。
 
第二次世界大戦太平洋戦線に
強引につっこんでいき、
大和民族として初めて、
異民族に国家を占領される
事態をもたらしました。
 
この150年を
過ちと言わずして、
どう表現するのか。
 
しかし、
その実態は
一般にほとんど伝わっていません。
 
学校教育が
官軍教育として
展開されてきたからです。 
  
安全保障の観点から
閉鎖体制をとったこと、
武家の「尊皇佐幕」意識が
朝廷と戦わない
「恭順」の動きとなったこと、
イギリス、アメリカの
日本侵略を防いだのは
徳川の幕臣であること、
倒幕軍が
テロリズムを繰り広げたこと
を隠蔽しました。
 
★日本の伝統文化は江戸期に完成
 
江戸期は
閉鎖体制をとることによって、
精神文化から
自然科学に至るまで
オリジナリティが育ち、
高度な江戸文明が発達しました。
     
江戸期は
教育投資が盛んで、
世界一の75%。
 
街道の伝馬制では
受け書、
送り書と
何枚もの文書が必要でした。
 
和算(数学)、
建築・土木
の技術レベルは
非常に高かった。
 
日本の伝統文化は
江戸期に完成しています。
 
能、狂言、歌舞伎、浄瑠璃などの芸能、
武家の作法、
組織と和を尊重する精神文化
が完成し、
倫理感が強くなりました。
 
日本を旅して、
日本人の清潔さ、
親切さ、
邪心のなさ
に感動しています。
 
自分たちも自然の一部である
という考え方は、
森林を管理し、
人糞を肥料として利用し、
江戸期の循環システムを
作り上げました。
 
★平和を政治の根底に置いた家康
 
265年弱にわたって、
一度も戦争をしませんでした。
 
元和に改元した1615年、
家康と秀忠は
「徳川の治世では戦争はしない」
という時代のコンセプトを
打ち出しました。
 
これは、
徳川が一番誇っていいこと
だと思います。
 
平和が一番大事。
 
その上で何をするか。
 
身分制はありましたが、
融通が利きました。
 
明治は、
江戸の遺産で
成り立っていました。
 
それを遺したのは、
どうやったら平和を維持できるか
という徳川治世のプライドです。
 
平和を
政治の根底に置いて考えた政権は
珍しい。
 
おおいに誇られていい
のではないでしょうか。
 
 
※この記事は、静岡商工会議所報2018年1月号に掲載しました。