駿府・静岡の歴史散歩

静岡商工会議所報掲載記事。「小和田哲男さん/駿府と今川氏」「徳川家康公と駿府」「富士山と静岡の人々」「德川恒孝さん/駿府静岡と私」ほか

幕末・明治維新の静岡をめぐる旅

筆:邨田丹陵
所蔵:明治神宮
 
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幕末・明治維新の静岡をめぐる旅
 
わが国の東西を結ぶ位置にある静岡市は、
戦国や幕末など時代の変わり目に
歴史の表舞台に登場してきました。
 
2017年は、
15代将軍・徳川慶喜公が
朝廷に政権をお返しする「大政奉還」を申し出て
朝廷がそれを受け入れた
1867年(慶応3)から150周年にあたり、
京都市を中心に
記念プロジェクトが開催されています。
 
また、
2018年は
西郷隆盛を主人公にした
NHK大河ドラマが放映されます。
 
そこで、
今回の観光飲食部会特集では、
静岡市の幕末・明治維新の史跡をめぐりつつ、
幕末から明治維新への変わり目を乗り越えた
人々の生き様に想いをはせました。 
(文責:静岡商工会議所 企画広報室)
 
 
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西郷・山岡会見の地
 
西郷・山岡会見の地
 
江戸に向け
駿府に進軍した
有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍の
参謀・西郷隆盛と、
軍事最高責任者・勝海舟の命を受けた
幕臣山岡鉄舟の会見が
1868年(慶応4)3月9日、
伝馬町の松崎屋源兵衛宅で行われました。
 
この会見において、
15代将軍徳川慶喜公の処遇、
江戸城の明け渡し、
徳川幕府の軍艦・武器の引き渡し
などが合意され、
5日後の3月14日、
江戸・三田の薩摩藩邸で行われた
勝海舟西郷隆盛との会談により
最終的に決定され、
江戸城無血開城が実現しました。
 
明治維新史の中でも
特筆すべき会談に
位置づけられています。
 
 
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宝台院
 
宝台院
徳川慶喜公謹慎の地
 
1868年(明治元)7月19日に
水戸を出発して銚子港に到着し、
21日に蟠龍艦に乗船し、
23日に清水港に到着。
 
厳重な護衛がついて駿府に向かい、
夕刻には
二代将軍秀忠公の生母ゆかりの
宝台院に入りました。
 
翌年9月28日に謹慎が解け、
10月5日に
紺屋町の元代官屋敷に移転するまで
約1年を
宝台院の十畳の居間で起居し、
六畳で勝や渋沢と面会しました。
 
当時の宝台院の建物は
焼失しましたが、
慶喜公の遺品として、
キセル、カミソリ箱、急須、火鉢、
直筆の掛軸、居間に安置した観音像
が残っています。
 
 
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浮月楼 徳川慶喜公屋敷跡
 
徳川慶喜公屋敷跡
 
明治維新を欧州で知り、
帰国した渋沢栄一
1986年12月19日に駿府に到着し、
翌々日の夕方、
宝台院で慶喜公に拝謁しました。
 
渋沢は、
府中藩の財政上の破産を案じ、
新政府から拝借した53万両と
西洋で行われている共力合本法
(個人の財産を集めて大きな事業の元手にすること)
を合わせて
ひとつの商会を結成し、
モノの売買や金銭の貸借を
取り扱うことを提案。
 
この着想を実現する方向で
藩の評議がまとまると、
1969年1月16日、
紺屋町の元代官屋敷
(現在の浮月楼)に
「商法会所」を設立し、
事業を始めました。
 
同年10月、
渋沢は
謹慎が解けた慶喜公に
屋敷を渡し、
教覚寺に移ります。
 
元代官屋敷には
池泉回遊式庭園が作られ、
慶喜公は
西草深の新邸に転居されるまで
20年間住まわれました。
 
 
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静岡学問所之碑
 
静岡学問所之碑
 
1968年10月、
藩の人材養成を目的として、
駿府城四ツ足御門にあった
元定番屋敷内
(現在の静岡地方合同庁舎付近)に
府中学問所を創設。
 
学問所は
翌年、駿府が静岡に改められて
静岡学問所となりました。
 
この学問所には、
向学心に燃える者は
身分を問わず入学が許可され、
向山黄村、
津田真一郎、
外山捨八
など旧幕府の教育機関に所属していた学者たちが
国学・漢学・洋学を教授し、
旧幕府の蔵書も移管。
 
アメリカ人教授E・W・クラークは
専門の理化学のほか
哲学や法学も教えました。
 
1872年8月の学制施行とともに
廃校となり、
洋学系の教授の多くは
新政府に登用され、
活躍しました。
 
学問所の蔵書は
「葵文庫」として
静岡県立中央図書館に
保管されています。
 
 
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西草深公園 徳川家達公邸跡
 
西草深公園
徳川家達公邸跡
 
1868年4月29日、
当時6歳の田安亀之助は
徳川宗家を相続し、
5月24日に徳川家達と改名して
駿府城主となり、
70万石を下賜されると、
8月9日に江戸を出発し、
8月15日に駿府に到着。
 
宝台院を参拝し、
慶喜公に対面された後、
駿府城の元城代屋敷(旧青葉小学校~教育会館)に
入りました。
 
翌年7月20日、
家達公は
浅間神社前(石鳥居脇)の
新宮兵部(浅間神社の社家)の屋敷に移られ、
1871年8月28日に東京へ帰住されるまで、
ここにお住まいになりました。
 
現在は、
西草深公園として整備され、
市民の憩いの場になっています。
 
1888年、
東海道鉄道が開通すると、
慶喜公は喧騒を避けて、
家達邸の東側に新しい屋敷を構え、
東京に戻る1897年まで
約10年、住まわれました。
 
 
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「尚志」の碑
 
「尚志」の碑
 
昌平坂学問所で学び、
1866年に
幕府がイギリスに留学生を派遣するときに
取締として同行しました。
 
幕府瓦解により帰国する際、
親しくしていたイギリス人から
餞別として贈られた書物が
『Self Help』。
 
帰国後、
中村も駿府に移住し、
1868年に
府中学問所の一等教授となり、
富春院
(静岡市葵区大岩本町26‐23 城北公園むかい)
の北側に
半洋式の「雑農軒」と称する
住宅を新築。
 
この静岡滞在時代に
S・スマイルズ著『Self Help』の訳書
J・S・ミル著『On Liberty』の訳書
『自由之理』
を出版しました。
 
邸宅跡には
中村敬宇先生旧宅跡」の石柱、
富春院の門前には
中村が書いた「尚志」の碑
が建てられています。
 
 
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田安門 徳川家達公邸門
 
田安門
徳川家達公邸門
 
田安門は、
西草深町の静岡浅間神社むかいに
建っていました。
 
この敷地には
浅間神社の新宮家の役宅が
置かれていましたが、
1869年、
版籍奉還により
静岡藩知事に任命された
田安家出身の徳川家達公が
私邸として
譲り受けました。
 
この門は、
その遺構であり、
家達公の出身に因んで
「田安門」と通称されてきました。
 
家達公は
1871年に
東京に帰住しましたが、
この門は
現地に残され、
1887年、
静岡尋常中学校の校舎の
正門となりました。
 
1900年には
師範学校女子部に引き継がれ、
1924年には
西草深児童遊園地となりましたが、
この門は
残存。
 
1958年、
(静岡市葵区千代田3‐1‐1)
に移築され、
向学のシンボルとして
今日に及んでいます。
 
 
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壮士墓
 
壮士墓
 
1986年4月19日、
榎本武揚が率いる幕府軍艦8艦は、
品川沖から
館山に脱走。
 
そのうち咸臨丸は
8月20日、
悪天候のため浦賀沖で座礁して漂流し、
下田港を経て
9月2日に清水港に入港。
 
下田港から通報を受けた
総督府
富士山丸、武蔵丸、飛龍丸を
清水港に向け、
9月18日に咸臨丸を砲撃。
 
咸臨丸に残っていた10数名は
討死にし、
官軍は死体を海に投げ捨てたまま、
咸臨丸を曳航して
引き揚げてしまいました。
 
死体が湾内に漂ったまま
数日が経ち、
舟を出して
7人の死体を収容して
向島の松の根もとに埋葬し、
盛大な法要を営んで、
悲運の戦士を供養しました。
 
次郎長の心意気をたたえ、
向島の埋葬箇所に
みずから渾毫して
「壮士墓」を建てました。
 
 
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咸臨丸記念碑
 
咸臨丸記念碑
 
(静岡市清水区興津清見寺町4181)
の境内に建つ
「咸臨丸記念碑」には、
大鳥圭介による
「骨枯松秀」の篆額、
永井尚志による
約300字の碑文、
榎本武揚による
「食人之食者死人之事」
(人の食を食む者は、人の事に死す
=徳川の禄を食んだ咸臨丸乗組員は、徳川に殉じた)
という『史記』の一節が
刻まれています。
 
榎本が率いた旧幕府艦隊は、
咸臨丸を失った後、
1868年10月26日に
箱館五稜郭を占領。
 
しかし、
翌年5月18日に降伏。
 
榎本は投獄されますが、
1872年に放免となり、
を経て、
大臣を歴任。
 
1887年4月17日に
清見寺で、
記念碑の除幕と法要を営んだ時は、
第1次伊藤博文内閣の
逓信大臣に就任していました。
 
 
※この記事は、静岡商工会議所報2017年9月号に掲載しました。