駿府・静岡の歴史散歩

静岡商工会議所報掲載記事。「小和田哲男さん/駿府と今川氏」「徳川家康公と駿府」「富士山と静岡の人々」「德川恒孝さん/駿府静岡と私」ほか

三つあった!? 駿府城天守

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家康の天守台と秀吉の天守
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秀吉の天守
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発掘された金箔瓦
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駿府城を愛する会
三つあった!?駿府城天守
静岡大学名誉教授 小和田哲男
 
駿府城を愛する会(酒井公夫会長)は
2018年12月18日(火)、
静岡市中央体育館3階大会議室で
講演会を開催し、
80名が参加。
酒井公夫会長の挨拶に続き、
小和田哲男氏が講演。
その後、
駿府城天守台発掘現場に移動し、
静岡市歴史文化課から
発掘調査の説明を受けました。
小和田哲男氏の講演要旨は次の通り。
(文責:静岡商工会議所 企画広報室)
 
★五カ国時代家康の駿府城
 
三河で自立し、今川氏真を攻めて、
三河遠江二カ国の大名となり、
元亀元年(1570)に
居城を岡崎から浜松に移します。
 
織田信長とともに
武田氏を滅ぼして駿河を得、
甲斐・信濃も奪い、
五カ国の大名となりました。
天正13年(1585)、
居城を浜松から駿府に移すことを
決めました。
 
次男を豊臣秀吉の養子に出し、
講和を結びます。
秀吉との距離をおき、
五カ国の中心である駿府
城を造るのが適当と考えたのです。
 
翌年9月1日、
駿府城に移ります。
まだ駿府城は完成していません。
松平家忠の日記を見ると、
石垣の上に天守を築いていたことが
分かります。
どんな天守を、どこに築いたかは不明です。
 
駿府城天守台を掘り下げると、
五カ国時代の天守
今川館の遺構が出てくるかもしれない
と考えています。
 
中村一氏(なかむらかずうじ)の駿府城
 
大御所時代家康の駿府城天守台は、
東西61m×南北68mで、
江戸城天守台よりも大きいことが
分かりました。
 
さらに掘り下げたところ、
東西33m×南北37mの石垣が
出てきました。
石垣の角度が違い、
天正時代の技術では
高い石垣は積めませんでした。
 
尾張の出身で、
信長の家臣から、秀吉の重臣となり、
天正18年(1590)の山中城攻めで活躍し、
小田原攻めの論功行賞で
家康が江戸へ移ったため、
駿府城主14万5千石となり、
駿府で亡くなり、墓は臨済寺にあります。
 
一氏は、
家康が新築した城に入った
と思っていましたが、
実際は、
秀吉の命令で、
五カ国時代家康の駿府城を壊し、
その上に秀吉流の天守を建てたことが
今回の発掘で明らかになりました。
 
その象徴が330点の金箔瓦。
秀吉には黄金趣味があり、
江戸の家康を意識して、
金箔瓦を葺かせたのです。
 
★大御所時代家康の駿府城
 
慶長8年(1603)、
征夷大将軍になった家康は、
2年後、
秀忠に将軍職を譲ります。
 
秀忠を自立させるために距離をおこう
と考えた大御所・家康は、
駿府を選びます。
 
その理由を
増上寺の住職に話しています。
①自分にとっては故郷のようなところ。
②暖かい。
③米が美味しい。
④南西に大井川・安倍川、
北東に箱根山・富士山があり、
国堅固の地。
つまり、大坂方に対する備え。
大坂方が東海道を江戸へ攻め上ってきたら、
駿府で迎え撃とうという想いがありました。
 
駿府城は、
大手門が西(大坂方)を向いていて、
西の石垣が堅固で、
横矢が工夫されています。
薩摩土手は惣構(そうがまえ)の一部です。
 
工事は、
慶長12年(1607) 正月から
天下普請として進められ、
7月3日に本丸御殿が完成。
しかし、12月22日に焼失。
翌年3月に本丸御殿が完成し、
11日に家康は移りました。
 
その後も駿府城
たびたび火災にあっています。
 
 
※この記事は、静岡商工会議所報2019年3月号に掲載しました。