幕末・明治維新の静岡で活躍した人々
幕末・明治維新の静岡で活躍した人々
わが国の東西を結ぶ位置にある静岡市は、
戦国や幕末など時代の変わり目に
歴史の表舞台に登場してきました。
2017年は、
15代将軍・徳川慶喜公が
朝廷に政権をお返しする「大政奉還」を申し出て
朝廷がそれを受け入れた
1867年(慶応3)から150周年にあたり、
京都市を中心に
記念プロジェクトが開催されています。
また、
2018年は
西郷隆盛を主人公にした
NHK大河ドラマが放映されます。
そこで、
今回の観光飲食部会特集では、
幕末から明治維新への変わり目を乗り越えた
人々の生き様に想いをはせました。
(文責:静岡商工会議所 企画広報室)
徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
1837(天保8)~1913(大正2)
1847年、一橋家を継ぐ。
1866年、十五代将軍となる。
翌年、大政を奉還して
列侯会議の実権を握ろうとしたが、
武力討幕に追いこまれ、
大坂に退去。
海路、江戸に帰った。
この間、
鳥羽伏見の戦いが起こり、
朝敵の汚名を受けたが、
討幕軍の東下に際し、
江戸城で謹慎して
内乱の回避と徳川氏の存続に努め、
江戸城を明け渡して
水戸に去り、
徳川家を譲った
家達の駿府移住が決まると、
1897年(明治30)、
東京へ移り、
侯爵となる。
1863(文久3)~1940(昭和15)
田安慶頼の第三子。
1868年4月の江戸城開城で、
6歳になる田安亀之助が
徳川宗家を相続した。
駿河府中藩主として
駿府に入り、
重臣の協力を得て
藩政の展開を図り、
商法会所、静岡学問所、沼津兵学校等の開設、
無禄移住した旧幕臣には
牧之原等各地の開墾を奨励。
1869年の版籍奉還により
藩知事となり、
駿府を
静岡と改称。
1871年の廃藩置県で
東京に戻り、
1877年に英国留学。
1890年から
勝海舟(かつかいしゅう)
1823(文政6)~1899(明治32)
旗本・勝小吉の長男。
蘭学を学んで頭角を現し、
ペリー来航に際して提出した
海防意見書で注目された。
1855年、
海軍伝習生監督として長崎に赴き、
オランダ海軍の伝習を受け、
1860年、
咸臨丸艦長として
太平洋を横断して渡米。
1862年、
神戸海軍操練所で
幕府海軍を養成し、
坂本龍馬らを育てた。
1986年の
幕府瓦解に際しては、
徳川家救済、
慶喜公助命に努力。
徳川家の駿府移住に従い、
門屋に
家族とともに居住。
のち新政府に出仕した。
1836(天保7)~1888(明治21)
飛騨郡代・小野朝右衛門の子として
江戸に生まれる。
1855年、
槍の師である山岡家を嗣ぐ。
千葉周作に剣を学び、
無刀流を案出。
1868年、
将軍慶喜公が上野に謹慎すると
精鋭隊頭となるが、
勝海舟の委嘱により
徳川家の駿府移住に従い、
静岡藩の権大参事となる。
清水次郎長と親交を結び、
久能寺を復興し
鉄舟寺とした。
のちに新政府に出仕し、
茨城県参事等を経て
侍従となり、
明治天皇の側近となった。
渋沢栄一(しぶさわえいいち)
1840(天保11)~1931(昭和6)
現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれ、
畑作、藍玉作り、養蚕を手伝う。
「尊王攘夷」思想の影響を受けた後、
京都で一橋慶喜公に仕え、
一橋家の家政を改善。
1867年、
欧州諸国の実情を見聞。
翌年末、
帰国した栄一は
静岡藩の財政を立て直すために
商法会所を設立。
1869年末に
新政府の大蔵省の官僚となり、
辞職後は、
第一国立銀行を拠点に、
株式会社組織による
企業の創設・育成に力を入れ、
470余の企業に関わった。
中村正直(なかむらまさなお)
1832(天保3)~1891(明治24)
幕臣の子として
江戸に生まれ、
昌平坂学問所に学び、
幕府の儒官となったが、
さらに洋学を学び、
1866年、
英国留学。
幕府瓦解を知って帰国し、
駿府に移住。
1868年10月に開校した
静岡学問所教授(漢学)に就任。
1870年~1872年、
スマイルス『西国立志編』、
ミル『自由之理』を
静岡市で翻訳し、出版。
『西国立志編』は
数十万冊が出版され、
ベストセラーとなった。
静岡学問所の廃止直前に上京し、
大蔵省翻訳御用を務め、
1881年、
東京帝国大学教授に就任。
新門辰五郎(しんもんたつごろう)
1800(寛政12)~1875(明治8)
カザリ職人・中村金八の子として
江戸に生まれ、
輪王寺宮の家臣・町田仁右衛門の養子となる。
鳶仕事をし、
浅草下谷を管轄する
十番火消頭取となる。
輪王寺宮が
浅草に隠居した際、
新しい門を守らせたことから
新門の辰五郎と呼ばれる。
慶喜公に見出された辰五郎は、
上洛した慶喜を警護し、
金扇馬印を守り、
江戸へ持ち帰った。
慶喜公とともに
駿府に移住。
静岡の町火消しをつくり、
頭取に就任。
玉川座の復興にも尽くし、
東京へ帰って死去。
娘は
慶喜公の愛妾。
清水次郎長(しみずのじろちょう)
1820(文政3)~1893(明治26)
清水港の船頭・三右衛門の三男に生まれ、
米屋甲田屋・山本次郎八の養子となる。
家業に精を出すが、
やがて侠客の世界に身を投じ、
海道一の親分として
声名をはせた。
幕末には
倒幕軍から
沿道警備役を命ぜられ、
旧幕臣10万人の
駿府移住の際は
寺・神社等の宿泊所を探した。
清水港で
官軍に砲撃された咸臨丸の死者を
手厚く弔った。
慶喜公の投網のお供は
次郎長だった。
侠客時代に鍛えた
情報力・交渉力を発揮し、
富士山麓の開墾、
清水港の開発、
等の新事業に取り組んだ。
※この記事は、静岡商工会議所報2017年9月号に掲載しました。