駿府・静岡の歴史散歩

静岡商工会議所報掲載記事。「小和田哲男さん/駿府と今川氏」「徳川家康公と駿府」「富士山と静岡の人々」「德川恒孝さん/駿府静岡と私」ほか

駿府と今川氏5 北条早雲の姉・北川殿と今川義忠の結婚

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北川殿をまつる徳願寺 静岡市駿河区向敷地の徳願寺山中腹 (撮影:水野茂さん)
 
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駿府と今川氏 第5回
北条早雲の姉・北川殿と
今川義忠の結婚
静岡大学名誉教授 小和田哲男
 
 
★北川殿とはどのような女性だったか
 
従来、今川家七代目の氏親(うじちか)を生んだ
北川殿と呼ばれる女性は、
駿河守護・今川義忠の側室として
理解されることが多かった。
 
それは、少し前まで、
彼女の弟にあたる北条早雲
「どこの馬の骨ともわからない
伊勢の素浪人だった」
と言われてきたことと関係している。
 
出自のわからないような男の姉が、
名門であり、
駿河守護を務めるほどの今川義忠の
正室などになるわけがない
というのが理由である。
 
ところが、近年、
北条早雲の出自に関する研究が進み、
正式な名前は
伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)といって、
室町幕府政所執事を務めた京都伊勢氏の一族で、
新九郎盛時自身は、
備中高越山城主・伊勢盛定(いせもりさだ)の子
であることが明らかにされるようになり、
義忠の側室などではなく、
正室として駿府に迎えられたことが
はっきりしてきた。
 
義忠が、
応仁・文明の乱勃発にあたり、
応仁元年(1467)に上洛しているので、
上洛中に結婚の話がまとまり、
駿府に戻るとき、
彼女を伴ったのではないかと思われる。
 
★娘を正親町三条実望に嫁がせる
 
ところで、
彼女はふつう北川殿の名で
呼ばれているが、
それは、彼女の屋敷が
安倍川の支流・北川のほとりにあった
と言われているからである。
 
安倍川の一部が、
ちょうど現在の静岡浅間神社のところで
北に向きを変え、
麻畑沼の方に向かって流れていくが、
屋敷は現在の臨済寺のあたりにあった
と言われている。
 
北川殿が亡くなった後、
そこに富士郡の善得寺の支院である
善得院が建てられ、
さらに、今川氏輝(うじてる)の死後、
そこに臨済寺が建てられたというわけである。
 
義忠と北川殿との間に、
はじめ女の子が生まれている。
 
この子は長じて、
京都の公家・正親町三条実望に嫁いでいる。
 
今川氏と京都の公家との交流は、
すでに義忠のときに始まっていたことがわかる。
 
そして文明3年(1471)に
嫡男の龍王丸が生まれた。
 
のちの氏親である。
 
「辰王」と書かれた史料もあるので、
読み方は
「りゅうおうまる」ではなく、
「たつおうまる」であろう。
 
龍王丸が6歳になった文明8年(1476)、
父・義忠が
遠江国人領主・横地氏、勝間田氏の討伐に出かけ、
戦いに勝って凱旋の途中、
その残党によって殺されるという
不慮の出来事が勃発し、
今川家は内訌(ないこう)状態を迎えるのである。
 
※この記事は、静岡商工会議所報2005年8月号に掲載しました。