駿府・静岡の歴史散歩

静岡商工会議所報掲載記事。「小和田哲男さん/駿府と今川氏」「徳川家康公と駿府」「富士山と静岡の人々」「德川恒孝さん/駿府静岡と私」ほか

駿府と今川氏3 三代将軍義満・六代将軍義教の富士遊覧

イメージ 1
静岡市駿河区からの富士山の眺め(撮影:水野茂さん)
 
イメージ 2
 
駿府と今川氏 第3回
三代将軍義満・六代将軍義教の
富士遊覧
静岡大学名誉教授 小和田哲男さん
 
 
★「国堺の重鎮」と言われた今川氏
 
六代将軍・足利義教
駿府まで来て富士山を見たことは
よく知られているが、
それより前に
三代将軍・義満が同じように
駿府まで来ていたことは
あまり知られていない。
 
しかし、義教の富士遊覧のときの準備にあたり、
義満のときの例を参考にして準備を進めたことが
満済准后(まんさいじゅごう)日記』に見えるので、
義満も駿府まで下向していたことは
確実である。
 
義満は嘉慶2年(1388)9月、
義教は永享4年(1432)9月に、
それぞれ富士遊覧と称して駿府まで下っているが、
富士遊覧は表向きの理由で、
二人とも本当の狙いは
別なところにあった。
 
周知のように、
鎌倉時代は幕府が鎌倉に置かれ、
その出先機関としての六波羅探題
京都に置かれていた。
 
室町時代はその逆で、
京都の室町に幕府が置かれ、
出先機関の鎌倉府が
鎌倉に置かれていた。
 
鎌倉府のトップが鎌倉公方で、
二代将軍・足利義詮の弟・基氏の子孫が
その職を世襲していたのである。
 
そして、何代か経つうち、
将軍と鎌倉公方は対立し始めた。
 
将軍管轄の一番東寄りの国が駿河であり、
鎌倉公方管轄の一番西寄りの国が伊豆であった。
 
そのため、その堺となる駿河国の守護・今川氏は
「国堺の重鎮」と呼ばれるのである。
 
駿府の望嶽亭(ぼうがくてい)は、どこにあったか
 
将軍がわざわざ駿府まで来たのは、
鎌倉公方・足利氏の独立的動きを牽制し、
威嚇を加えるためであった。
 
義満のときもそうだったし、
義教のときも同様である。
 
ただ、迎える今川氏としては、
名目上は富士遊覧ということになっているので、
それ相応の接待をしなければならない。
 
義満のときの泰範は
特別な建物を建てたことを示す史料はないが、
義教のときの範政は、
「将軍御成(おなり)」のためだけの
特別な建物を建てさせたことが
いくつかの史料によって
確かめられる。
 
名前も
そのものずばり、望嶽亭である。
 
このときの様子は、
義教に随行した公家や僧侶の
日記および紀行文に詳しく書かれ、
義教が詠んだ歌も伝えられている。
 
すなわち、
みずばいかで思いしるべき言の葉も
及ばぬ富士とかねて聞しを
というものであった。
 
ただ、望嶽亭がどこにあったかは
残念ながら不明である。
 
今川館があったと考えられる
現在の駿府城公園からは
前方の山が少し邪魔をしている感じがあり、
一説に、
現在の静岡市の川辺町から新川の辺りだったのではないか
とも言われている。
 
 
※この記事は、静岡商工会議所報2005年6月号に掲載しました。