駿府・静岡の歴史散歩

静岡商工会議所報掲載記事。「小和田哲男さん/駿府と今川氏」「徳川家康公と駿府」「富士山と静岡の人々」「德川恒孝さん/駿府静岡と私」ほか

駿府と今川氏2 観応の擾乱と手越河原の戦い

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JR安倍川駅近くのみずほ公園内に建つ古戦場碑(撮影:水野茂さん)
 
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長田地域に残る供養塔群(撮影:水野茂さん)
 
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駿府と今川氏 第2回
静岡大学名誉教授 小和田哲男さん
 
 
足利尊氏・直義兄弟の対立と今川氏
 
室町幕府初期は、
足利尊氏と弟・直義の二頭政治という性格であった。
 
兄・尊氏が武家の棟梁として主従制的な支配権を握り、
侍所・恩賞方といったような軍事指揮権および恩賞宛行(あておこない)が
尊氏の手にあり、
弟・直義は統治権的な側面、すなわち、
安堵方(あんどかた)、
引付方(ひきつけかた)、
禅律方(ぜなりつかた)、
官途奉行(かんとぶぎょう)、
問注所(もんちゅうじょ)
といった全国を統治する政務を統括していたのである。
 
この二人が協力し合い、
文字通り、二頭立ての馬車のように
幕府政治は順調に走り出した。
 
ところが、
この二頭政治は
意外と短命で終わっている。
 
尊氏と直義が対立し始めたからである。
 
これは、
尊氏・直義兄弟の対立というよりは、
尊氏の執事だった高師直と直義の対立といった方が正確で、
何ごとにも急進的な高師直と、
体制擁護派の直義が
路線を巡って争うことになってしまった。
 
その対立が観応元年(1350年)に始まったことから、
これを観応の擾乱と呼んでいる。
 
 
観応の擾乱のとき、
各国の守護は尊氏につくか、直義につくか迷い、
実際、今川範国・範氏父子も、
それまでのつながりの深さから
直義につくことを選択する道もありえた。
 
しかし、最終的には、
尊氏方になることを選んでいる。
 
結果論であるが、
このとき、仮に直義の方についていれば、
その後の今川氏はなかったというわけだ。
 
観応の擾乱の勝敗を決定づけたのが、
翌観応2年(1351年)12月の薩埵峠の戦いであるが、
実はその少し前、
同年9月27日の手越河原の戦いと、
それに引き続く久能寺周辺の戦いなど、
駿府付近の戦いも
観応の擾乱の帰趨に大きな意味を持っていたのである。
 
手越河原の戦いの模様は、
同年1月の今川範氏評判伊達景宗軍忠状(「駿河伊達文書」)によって
ある程度わかる。
 
これは、
今川範氏軍に属して直義の軍勢と戦った伊達景宗が、
自己の戦功を書き上げたものである。
 
それによると、
手越河原の戦いそのものは直義軍の優勢勝ちで、
直義派の中賀野掃部助によって
駿府も占領されてしまったことがわかる。
 
その後、
尊氏派の今川範氏の家臣・武藤、鴾、大村氏らの軍勢が
焼津の小川より小坂に討って出て、
その勢いで駿府に攻め入り、
中賀野掃部助、入江駿河守らが久能寺に退いたことで、
駿府周辺での尊氏方の勝利となっているのである。
 
手越から小坂にかけての山沿いに
五輪塔が見つかることがあるが、
この激戦の名残であろう。
 
 
※この記事は、静岡商工会議所報2005年5月号に掲載しました。