駿府静岡と私10 松平家八代と家康公
松平太郎左衛門親氏像 写真提供:松平観光協会
駿府静岡と私10
松平家八代と家康公
德川宗家第18代当主 德川恒孝さん
松平家は
初代・親氏(ちかうじ)から
家康公の父・広忠(ひろただ)まで
八代を数える一族でした。
この松平家八代の御墓は、
豊田市松平の高月院と
一族の祖は
その末子・義季(よしすえ)が
上野国世良田庄徳川郷(こうずけのくにせらたのしょうとくがわごう)に住んで
徳川義季と名乗り、
南北朝の混乱の中に衰微して、
義季の子孫の八代目親氏が
流浪して松平郷に至って、
郷主・松平太郎左衛門の娘を娶(めと)って
松平氏を名乗った
というのが系図です。
松平家三代目の信光(のぶみつ)が
寺に納めた願文があります。
天下泰平国家安穏を守護せしめんと欲す。
之に依り
子孫代々浄土の真宗に帰依し、
仏神を崇敬し奉り、
加護の力を以って
武運を開栄し、
天下の守護職として
上は叡慮(えいりょ)を安んじ奉り、
下は国家を治め
万民を安んじ、
普く念仏を流布し、
二世の利益を施し
共に大菩提を成ぜん」。
小さな領主の願文としては、
天下の守護職たらんというのは
気宇壮大なものがあります。
家康公の祖父・清康(きよやす)は
なかなかの英傑で、
岡崎を拠点に
ほぼ三河一国を平定しました。
しかし彼は
誤って部下に殺され、
岡崎勢は混乱し
織田軍は岡崎に迫りました。
家康公の父・広忠が
10歳の時です。
広忠は
流浪し
今川の援助のもとで
ようやく岡崎に帰り、
その後は今川方の尖兵(せんぺい)として
尾張勢と戦うことになります。
地方武将である松平家は、
東に駿河の今川、
西に尾張の織田という
強大な勢力に挟まれており、
とても同時に
二方面作戦の出来るような力は
ありませんでした。
家康公が生まれたのは
天文11年(1542)の暮れ、
岡崎城でした。
母は
の娘・於大(おだい)の方(かた)で、
父が亡くなり、
兄の代になって
水野家が
織田方に味方する方針となったために
離縁となり、
松平家を去ります。
家康公
満1歳の時です。
そして
三河の国侍の多くが
織田方に傾くにつれて
広忠に対する
今川方の不信が
強くなったこともあって、
家康公は
人質として
駿府へ送られることになりますが、
途中で
織田方に味方する勢力の手によって
逆に
尾張に送られてしまいます。
天文16年、
家康公6歳の時です。
ここで
14歳の信長と
会うことになります。
その後の二人の関係を見ると、
この子供時代の二人の間に出来た
信頼と友情の関係は
大変に深かったのだろう
と思われます。
※この記事は、静岡商工会議所報2015年6月号に掲載しました。