駿府・静岡の歴史散歩

静岡商工会議所報掲載記事。「小和田哲男さん/駿府と今川氏」「徳川家康公と駿府」「富士山と静岡の人々」「德川恒孝さん/駿府静岡と私」ほか

駿府静岡と私9 家康公四百回忌にあたって

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久能山東照宮・拝殿(国宝)
徳川家康公が久能山に神葬され、東照宮にお祀りされてより四百年を迎えました。
 
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駿府静岡と私9
家康公四百回忌にあたって
德川宗家第18代当主 德川恒孝さん
 
 
今年は日本各地で
「家康公没後四百年記念」の行事が
盛大に行われています。
 
松平家発祥の地である
三河松平郷。
 
今川家時代に育ち、
後に終生の居城となった
駿府静岡。
 
独立された
岡崎。
 
大きく成長された
浜松。
 
そして開府された
江戸・東京など、
家康公の足跡は
各地に広がっています。
 
その中でも
現代に直せば小学校低学年から高校三年生迄、
いわば人格形成に最も大切な時代を過ごされたのが
駿府、静岡でした。
 
当時の駿府は、
強大な力を持ち、
名君今川義元に支配された
極めて文明度の高い都市で、
義元公に可愛がられた家康公は
確(しっか)りとした教育を受けますが、
一方
小さな三河の人質の小僧ですから、
苛(いじ)める人、
全く無視する人、
一方
優しく励ます大人達も
当然います。
 
小さな人質の子供には
大人達は
何の遠慮もありません。
 
家康公は幼い瞳で、
人間の温かさ、
冷たさ、
正しい人、
嘘を平気でつく人を
見つめながら
成長されたことになります。
 
今川家に人質となる前、
家康公は
織田家の人質として
約2年間を
尾張で過ごしています。
 
そこにいたのは
6歳年上の織田信長少年でした。
 
この二人の少年が
どう接触したのか、
記録は全くありませんが、
あの気性の信長少年が
三河の小僧っ子を
見に来ない訳がありませんから、
当然二人は会って
 「俺と一緒に強くなる子分になるか?」
 「ウン、いいよ」
と言うような事が
あったのだろうと思います。
 
子供達の約束は
神聖なものですから、
あの猜疑心の強い信長公も
最後まで家康公を信じ、
本能寺の変の時に、
家康公も
危機一髪の脱出を余儀なくされ、
秀吉公に対して
あくまで織田家の政権の維持を
主張されたのでしょう。
 
江戸で開府し、
駿府に大御所として戻られた
家康公は
秀吉公が推し進められた朝鮮出兵
迅速に収拾され、
多くの捕虜を帰国させて、
国交を回復されました。
 
公が進められたのは
武力征服ではなく、
平和な国際貿易の振興であり、
御朱印船は
遠く東南アジアの国々との貿易に
進出して行きました。
 
公の外交顧問役を努めた
イリアム・アダムスが
建造した西洋型の船は
難破船員を送って
米国に送り届けています。
 
また
公は
長い戦乱で失われた
多くの歴史的な建築を
復元し、
日本の豊かな文化を
復元されています。
 
四百年の祭りは、
じっくりと確かな目で
日本の針路を定められた
公の御事跡を
確りと心に刻む時でもある
と思います。
 
 
※この記事は、静岡商工会議所報2015年5月号に掲載しました。