駿府静岡と私32 江戸の大火と森林資源
駿府城模型
駿府も火災が多かった。
3年後に金属瓦を使った天守閣が完成。
3年後に御殿、櫓、城門等が再建されたが、天守閣は再建されなかった。
駿府の定火消は、天和3年(1683)の大火を教訓として発足。
駿府静岡と私32
江戸の大火と森林資源
德川宗家第18代当主 德川恒孝さん
江戸に
初めての大火が起きたのは
明暦3年(1657)。
2日間の大火で
大名屋敷、旗本屋敷の大半が焼け落ち、
町屋も二百町にわたって焼失し、
10万人以上が亡くなりました。
幕府は、
大坂、駿府などの銀座から
銀3万貫を取り寄せて
被災者の救済にあたり、
同時に
江戸の町割りを一変して
火災に強い街造りを
行いました。
道を広くし、
萱や藁葺き屋根を禁じ、
火除地を設け、
広大な庭園を持つ
大名屋敷の配置を大変更して、
延焼を食い止める
町割りを造りました。
定火消制度が出来、
焼死した人々を弔う
回向院が建設され、
以降50年ごとに
大法要が営まれています。
この江戸市街地再開発の費用は、
捻出しました。
天下泰平の世の中であるから
天守閣の再建は無用
と主張して、
「とんでもない」
と反対する老中たちを
説得したのは、
三代将軍・家光公の異母弟
(秀忠公唯一の庶子)
であった保科正之公でした。
家光公の遺言により
四代将軍・家綱公の後見職につき、
それ以降20数年にわたり
実質的に幕府の運営に
あたった方です。
これ以降、
江戸城には
天守閣は再建されませんでした。
天守閣のないことが、
天下に
幕府の意図する世を
示したことになります。
この保科正之公が
会津松平家の始祖となった方です。
玉川上水道建設も
彼の発案です。
京都でも
大火が起こり、
寛文元年(1661)、
延宝元年(1673)
の二度にわたって
禁裏が全焼しました。
禁裏と寺院の造営は
莫大な費用のかかる大工事ですが、
二度とも
幕府の手によって
即座に再建されています。
1666年には、
ロンドンも
大火に見舞われました。
ロンドンは
5日にわたって燃え続け、
市街地がほとんど焼ける
大惨事となりました。
この大火のあと、
それまで木造が大半であった市街は
石造りの町並みに変わります。
なぜロンドンは
石造りの町並みになって、
江戸や京都は
木造の町並みを繰り返したのか。
最大の理由は、
当時すでに英国は
大型軍艦の建造
(一隻に樹齢100年以上の大木約2千本が必要)で、
森林資源が
枯渇していたからです。
一方、
日本には
豊かな森林資源があり、
幕府は
正保2年(1645)、
諸国に山林乱伐禁止を命じました。
江戸では
再々大火が起こりましたが、
大店の商家は、
数日で店を再開できるように
材木商に
再建分の材木を
キープするようになりました。
※この記事は、静岡商工会議所報2015年3月号に掲載しました。