駿府静岡と私5 家康公と駿府2
春、家康公は、美しく着飾った人々を連れて、
桜花の下で、人々は詩歌を吟じ、宴を楽しんだ。
やがて日が暮れると、近くの庵室から誦経の声が聞こえた。
家康公がその意味を尋ねられると、
僧は「此日已過、命即衰滅、如少水魚、斯有何楽
(この一日が過ぎると、命もその分、衰滅する。
少ない水に取り残された魚のよう。
何の楽しみがあろうか)」と訓釈。
家康公は、この言葉を心に銘じ、無上正真の悟りを得て、城に帰られた。
翌日、人々が花見のことを賛美すると、
家康公は
「花の色香は輪廻の業因。
美しい花に本尊を念じ、冷風に無常を観られるなら、
真理に到達し、寂光浄土に還れるであろう」
と語ったという。
駿府静岡と私5
家康公と駿府2
德川宗家第18代当主 德川恒孝さん
家康公が
最初に駿府で暮されたのは
8歳から19歳迄。
その間
今川家の扱いは
決して悪くなかったことは
前号に書きましたが、
一方
飽くまで人質として扱う人も
多々居たのも事実で、
公は
人間と言う生き物の本質を
ジッと観察しつつ
成長しました。
弱者と見れば
徹底的に苛める
残忍で意地の悪い人。
逆に
優しく励まして
守り庇う人。
自分の利益にならなければ
全く無関心な人。
様々な人々が居り、
公は
少年の鋭い観察眼で
それらの人々を見詰めながら
成長しました。
さらに
彼の心の中には、
彼の成長を待ちながら
過酷な生活を強いられている
三河の家臣団の事が
常にありました。
少年には重い責任ですが、
後の公の生涯を見れば
駿府での成長時代に養われた
「耐える心」と
人間の本質を見抜く観察眼が
如何に大切であったか
が解ります。
一方、
信長公は
生まれながらの将です。
しかも
天才的な将でした。
若くして将となった彼は
部下達を
常に上からの目線で見つめ、
その能力を測りました。
彼の期待に添えなかった部下の
末路は無惨でしたが、
結局
そのことが命取りとなり、
次は自分がやられると確信した
明智光秀に奇襲されて
亡くなります。
信長公は
大変に孤独な人だったろう
と思います。
秀吉公は、
その信長公に
全てを賭けて成長した方です。
しかも
武士としての最底辺から
昇った方ですから、
人の心も
良く解った方だったでしょう。
しかし彼には
常に前に前にと進んでいないと
自分の存在価値が失われる
という強迫観念があり、
それが
朝鮮半島を経由して
中国から天竺にまで
権威を広げると云う
壮大なものとなりました。
プレッシャーが強すぎたのか、
晩年の彼の言動には
なにか狂的なものが
感じられます。
こうして
御三方の性格を
世界に当てはめて見ますと、
西欧社会の支配者は
古今を通じて
大半が「信長公型」です。
アジア社会では
そこに
「秀吉公型」が入って来ますが、
一方
家康公型の支配者と、
250年を超える平和な国家繁栄の例は
世界史には見つからない
ように思います。
以前に書いたようにも思いますが、
ある会合で
中国の若い方が
「徳川さん」と言って
握手を求められ、
なかなか私の手を
放しませんでした。
その方は
孫家康と言う方で、
そのお父上が
家康公の生涯に心酔して
命名されたそうです。
日中の長い、
起伏に富んだ歴史の中でも
珍しいケースだと思います。
※この記事は、静岡商工会議所報2013年5月号に掲載しました。