駿府・静岡の歴史散歩

静岡商工会議所報掲載記事。「小和田哲男さん/駿府と今川氏」「徳川家康公と駿府」「富士山と静岡の人々」「德川恒孝さん/駿府静岡と私」ほか

富士山と静岡の人々5 足利将軍の富士遊覧と今川文化

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富士三保松原図屏風
(16世紀中頃、紙本金地着色・六曲一双屏風、はごろもフーズ㈱寄贈、静岡県立美術館蔵)
右隻に富士山、その右下に製塩を行う人々、
左隻から右隻にかけて三保松原と羽衣の松を配し、
左隻中央奥に清見寺、その下方に清見ケ関、左端に江尻の街並みと巴川を描いている。
 
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富士山と静岡の人々5
足利将軍の富士遊覧と今川文化
静岡大学名誉教授 小和田哲男さん
 
★富士遊覧のねらいは
 鎌倉公房足利氏の牽制

初代足利将軍尊氏と二代義詮(よしあきら)は、
観応(かんのう)2年(正平6、1351)の
観応の擾乱(じょうらん)で
薩埵(さった)峠まで出陣してきているので、
薩埵峠からの富士山を
眺めていたはずである。
 
しかし、二人にとって
富士遊覧などという
悠長なものではなかった。
 
足利将軍で、
京都から駿河まで足を運び、
富士遊覧を楽しんだのは
三代義満と六代義教の二人だった。
 
義満は
至徳2年(元中2、1385)の
大和東大寺興福寺の参詣を皮切りに、
越前の気比(けひ)神宮など、
各地の名所や寺社を訪れており、
嘉慶2年(元中5、1388)9月には、
富士遊覧のため、
駿府まで下向している。
 
このときの駿河守護は
今川泰範であるが、
史料が少なく、
泰範がどのように義満を接待したのか、
くわしいことはわかっていない。
 
義満にしても、
このあとの六代義教にしても、
富士遊覧と謳ってはいるが、
富士山をただみるだけではなく、
次第に独立的な動きをみせはじめた
鎌倉公方足利氏の牽制も
ねらいであった。
 
しかし、
わざわざ将軍が
富士山を眺めるために
駿府までやってきたということで、
景勝地としての
駿府知名度が高まったことは
たしかである。
 
足利義教を迎えるため、
 今川範政は駿府に望嶽亭を建設
 
義教の富士遊覧は
永享4年(1432)9月だった。
 
このときの史料は豊富で、
接待役・今川範政の対応も
かなりなまで明らかになっている。
 
このときは、
義教だけでなく、
細川持春、
山名熙貴(ひろたか)・
一色持信
といった幕府中枢の守護大名をはじめ、
飛鳥井(あすかい)雅世、
三条実雅、
堯孝(ぎょうこうこう)法印ら、
公家・僧侶なども
これに従っており、
迎える今川範政としても、
一世一代の盛事(せいじ)であった。
 
それを象徴しているのが
望嶽亭の建設である。
 
望嶽亭はその名の通り、
富士山を望むために築かれた建物で、
「将軍御成(おなり)」のためだけに
建てられている。
 
どこに築かれたかは
不明であるが、
駿府今川館の城内だとすれば、
平屋では眺望はあまりよくないので、
二階建てだったのではないか
と思われる。
 
駿府知名度が高まり、
 今川義元の時代には京都の公家が下向
 
9月10日に京都を出発した義教一行は
18日に駿府に到着したが、
着いてすぐ義教は
望嶽亭にあがって
富士山をみている。
 
そのとき、義教が、
 
みずばいかで思ひしるべき言の葉も
及ばぬ富士と兼て聞しを
 
と歌を詠(よ)むと、
範政がそれを受けて、
 
君がみむけふの為にや昔より
つもりはそめしふじの白雪
 
と応じている。
 
次の日も
随行した守護や公家を交えた
歌会が開かれているので、
義教は
よほど富士山を気に入ったものとみえる。
 
20日には
清見寺まで足をのばしており、
このときの遊覧は、
その後の今川文化にも
影響を与えたものと思われる。
 
戦国期、
今川義元の時代、
京都の公家たちは駿府に下向し、
富士遊覧が
目的の一つになっているのである。
 
 
※この記事は、静岡商工会議所報2013年7月号に掲載しました。