駿府・静岡の歴史散歩

静岡商工会議所報掲載記事。「小和田哲男さん/駿府と今川氏」「徳川家康公と駿府」「富士山と静岡の人々」「德川恒孝さん/駿府静岡と私」ほか

徳川家康公と駿府8 駿府、清水湊、富士川を舟で結んだ家康

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角倉了以翁の紀功碑と渡船「上り場」常夜灯(富士市岩淵 写真提供:富士市)
 
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歌川広重東海道五拾三次之内 由比 薩埵嶺」(保永堂版)
 
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歌川広重東海道五拾三次之内 江尻 三保遠望」(保永堂版)
 
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駿府、清水湊、富士川を舟で結んだ家康
常葉大学名誉教授 川崎文昭さん
 
 
清水湾に注ぐ
巴川の河口に形成された湊が
近世清水湊(しみずみなと)であった。
 
巴川右岸に清水町、
その北に江尻町・入江町が位置し、
穴山梅雪が居城した江尻城跡が
田畑に開発されていた。
 
戦国時代には
江尻町は江尻三日市場、
入江町は入江七日市場
と称され、
定期市が立ち、
両市場の辺が
江尻湊とも清水湊ともいわれた。
 
戦国時代、清水湊は
駿河湾の清水・沼津・内浦・吉原・小河・石津、
遠州の湊・掛塚(かけつか)などの
今川氏分国中の湊で
自由に商売することが認められ、
帆役・湊役などの諸役が免除されていた。
 
近世清水湊は
これより南に下がった地に
新しく形成された。
 
清水湊には、
池田輝政や浅野紀伊守・生駒讃岐守らの
蔵屋敷があった。
 
それは
駿府城下に多数の武士や商工業者が衆住し、
消費地になりつつあったからである。
 
彼らは領国の年貢米を駿府に送り、
換金しようとして清水湊に回送し、
保管していたのであった。
 
湊には
「御材木置場」が設けられた。
 
駿府城本丸の造営用材が
天龍川上流、
あるいは熊野から、
伊豆の天城から
伐りだされ保管されていた。
 
一方、
天竜川河口に
掛塚湊が形成された。
 
掛塚湊から
大坂、駿府などの各地に
材木・榑木(くれき)などが積み出された。
 
材木や榑木などは
信濃国の幕府御料林から
伐りだされた。
 
家康は
木曽とともに
全国でも有数の美林地帯である
信州伊那を直轄支配した。
 
このころは
城郭建築や城下町形成などにより
木材の需要が大きかった。
 
家康は
これらの木材を
伊那地方に求めたのである。
 
慶長12年(1607)家康は
角倉了以(すみのくらりょうい)に朱印状を与え、
信州伊那より掛塚への
天龍川舟運路(てんりゅうがわしゅううんろ)を開削(かいさく)させた。
 
これにより掛塚湊は
木材集散の根拠地になった。
 
慶長13年(1608)富士川舟運路が
角倉了以によって開削された。
 
これによって
甲府と駿州岩淵の間が
河川通運によって通じた。
 
甲州・信州の年貢米や諸物資は
鰍沢・青柳・黒沢の三河岸に集められて
富士川を川下げされ、
駿州岩淵に送られた。
 
岩淵から陸路で蒲原浜まで送られ、
蒲原浜で小廻船に積み
清水湊まで回送された。
 
清水湊では、
これを大廻船に積み替えて
江戸へ回送した。
 
逆に
瀬戸内地方から送られてきた塩を主にし、
酒・油なども
富士川を通じて
甲州・信州に送った。
 
家康は
駿府城修築がなったときに、
駿府郊外の上土を経由して
巴川水路を掘削した。
 
これにより、
駿府と清水湊は水路で結ばれ、
富士川舟運路を通じて
甲信州と結びついた。
 
こうした清水湊には
42軒の廻船問屋が営業した。
 
それは、
大坂の陣に際して
水軍基地であったために
廻船や漁船を挑発され、
兵員や兵糧の回送に従事させられ、
膨大な湊御用と船役を勤めた。
 
その功績が認められ、
42軒の廻船問屋が
幕府によって
独占権を認められたのであった。
 
廻船問屋は
強い仲間意識のもとに
42軒の数を明治まで維持した。
 
 
川崎文昭さんが選ぶ
徳川家康公を表現する一文字
「交」
家康は、
海上交通、河川交通を縦横に結びつけて
全国的流通網をつくり出した。
清水と富士川舟運を通じて、
掛塚と天竜川舟運を結んで、
駿府と江戸と甲信州を
また大坂を結んだ。
 
 
※この記事は、静岡商工会議所報2011年11月号に掲載しました。