駿府と今川氏22 尾張に向け駿府を出陣する今川義元
桶狭間今川義元血戦の図(所蔵:小和田哲男さん、撮影:水野茂さん)
駿府と今川氏 第22回
★駿府を子・氏真に任せていた義元
従来は、
永禄3年(1560)5月19日に
と考えられてきた。
しかし、
近年の研究によって、
すでに弘治3年(1557)正月以前に
家督が氏真に譲られていたことが
明らかにされている。
桶狭間の戦いの3年も前に、
すでに駿府の支配権は
義元から氏真に委譲されていたのである。
この事実と、
連動しているのではないか
というのが私の解釈である。
以下、この点をもう少し
掘り下げてみたい。
義元は、
比較的支配が安定していた駿河を
まだ若い氏真に任せ、
担当している。
氏真に領国経営の一翼を担わせ、
一種の「政治見習い」をさせる腹だった
のだろう。
これは戦国大名の宿命といってもよいが、
大名領国は停滞は滅亡を意味しており、
義元としては、
三河からさらに
尾張に版図を拡大していかないことには、
今川領国を維持できないと考え、
少しずつ尾張へ侵攻しはじめていた。
「駿府は氏真に任せている」
という安心感が
その背景としてあった
のであろう。
しかし、
その安心感が
結果的には
命取りになってしまうのである。
永禄3年5月10日、
今川軍の先鋒が
駿府の今川館から出陣していった。
義元本人は12日に出陣しており、
総勢2万5千と言われている。
このときの出陣のねらいについて、
「上洛のため」
と言われることもあるが、
このときは
一気に上洛を考えていたとは思えない。
尾張に侵攻し、
あわよくば信長を討ち取りたい
というのが目標だった
と思われる。
ところが5月19日、
桶狭間山で昼食休憩中、
わずか2千ほどの信長軍に奇襲され、
義元が首を取られてしまったのである。
2万5千の大軍とはいえ、
すでに2万は
織田方の鳴海城・大高城を奪い、
かなり前方に進んでおり、
義元近くには5千ほどしか
いなかったからである。
しかもこの日、
義元は馬ではなく
輿に乗って出陣しており、
信長に総大将・義元の居場所を
つかまれてしまっていたのも
敗因だった。
このことをもって、
「義元は馬にも乗れない軟弱武将だった」
などと言われるが、
それは大まちがいで、
義元は、
足利一門として、
将軍家から特別に
輿に乗ってよいという特権をもらい、
それを誇示していたためである。
※この記事は、静岡商工会議所報2007年1月号に掲載しました。